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ソ連が国連で3議席を得たのはなぜか?

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ソ連崩壊以前から、ウクライナとベラルーシ(当時は正式にソ連の一部だった)は、国連に独立した議席を持っていた。なぜ、アメリカやイギリスは同じ特権を得られなかったのでしょうか?

回答:2件

ソ連は、国連に3つの議席を持っていた。ソ連自身のほかに、ソ連の2つの共和国が議席を持っていた。 ウクライナとベラルーシだ。 しかし、当時はまだ独立国ではなかったので、これはあまり意味のないことだった。これは、ソ連が国連での比重を高めるために行ったとしか思えない。

これは1945年のヤルタ会談の成果の1つである。 実は当初、ソ連は当時16あった共和国すべてに代表を出すことを望んでいたが、最終的には2カ国に落ち着いたのである。 なぜ、ルーズベルトはこのような譲歩をしたのだろうか。私は次のような理由を考えている。

  • アメリカは、対日戦争でソ連の支援を必要としていた。ソ連はドイツを破った3ヵ月後に参戦に同意したが、いくつかの譲歩をしなければならなかった。
  • 国際連盟が失敗した大きな理由の1つは、いくつかの国、特にソ連が代表になっていなかったことである。国際連盟を成功させるためには、ソ連が国際連合に加盟することが重要であった。
  • 当時、共産主義国は3つしかなかった。当時、共産主義国はソ連、ユーゴスラビア、モンゴルの3カ国しかなかった。ソ連、ユーゴスラビア、モンゴルの3カ国だけだ。5カ国(50カ国中)ではそれほど大きな声にはならない。 もちろん、状況はすぐに変わったが、ルーズベルトはヤルタ会談でそのことを予見していなかったのだろう。

ウィキペディアによると、アメリカは国連にアメリカの2つの州を代表させるオプションも持っていたが、政治的な理由で実現しなかった(選択するのが難しい)そうだ。 出典を記載していない非常に弱い記事なので、もっと良い証拠を見つける必要がある。

イギリスに関しては、カナダ、オーストラリア、インドが参加しているので、ある意味、3議席より多い議席を得た。なお、インドはその時点では独立国ですらなかった。

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49
コメント: 2件

良い回答です。私は全く知りませんでした。もっと決定的なソースがあればいいのですが、そうですね......。
Noldorin  さん
投稿日:
0

ソ連は国連が西側に偏っていると考え、15カ国すべてのSSRの加盟を求めたと読んだ記憶があります(Wikipedia?)。アメリカは、本部をニューヨークに移すことを認めるなら、2つのSSRを認めると答えました。本部がジュネーブやストックホルムのような中立都市でなかったのは、このためだったのですね。また、アメリカは自国の2つの州にも加盟してもらいたかったが、他の48州は政治的な反発を招くので、どの州を選ぶかは決めなかったという話も読んだ覚えがある。悲しいことに、私はこれをウィキの記事で見つけることができず、もしそれが本当なら、ここで誰かがそれを認識してくれることを期待しています。
DrZ214  さん
投稿日:
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質問: ソ連が国連で3議席を得たのはなぜか?

ソ連が総会で何議席を与えられたかは、実は重要ではなかったということも述べておかなければならない。 国連総会は、安全保障理事会のおだやかな合意なしには拘束力のある決定を下すことができないのです。 また、安保理も合意形成の場ではなく、全会一致か棄権で動くだけだ。 安保理の拒否権が1つでどんな安保理や総会の行動も行き詰まる。 このため、ソ連に総会の議席と投票権を3つ与えることは、ソ連が総会に参加することを確実にするために支払うべき小さな代償だと考えられた。

当時、新聞の社説で言われていたように、それによって議席を増やすことはできなかった。 ソ連はすでに安保理に議席を持っていることによってすでに得ている以上の力を持つことはなかった。また、アメリカ、イギリス、フランスの安全保障理事会における権威を低下させるものでもなかった。

米国と国際連合の設立(1941年8月~1945年10月)
チャーチルとルーズベルトは、ソ連のスターリンが要求していたウクライナ・ソビエト社会主義共和国と白ロシア・ソビエト社会主義共和国の国連総会への出席についても譲歩し、ソ連の議席を3つに増やしている。 スターリンは当初、16ソビエト社会主義共和国すべての議席を要求していたが、ヤルタ会談でこれを断り、ウクライナとベラルーシを国連に入れることで妥協したのである。 アメリカはもともとスターリンの提案に対抗して、アメリカ50州すべてを国際連合に加盟させることを提案し、スターリンに妥協点を与えるように仕向けた。 また、ヤルタ会談では、1945年4月からサンフランシスコで開催される国際連合設立会議の招待状を米ソ英の3カ国が作成し、国際連合の正式な設立を目指した。

user27618  さん
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